鉄道が運ぶのは鉄道好きや歴史好きだけでなく、過去の「瞬間」も。旅の情感を味わいながら、日本の歴史に深く触れられる本です!🌟🚄
解説
『歴史のダイヤグラム 3号車』は、原武史の独自の視点から日本の近現代を描く作品で、鉄道という時間と空間をつなぐ媒介を利用しています。著者が言及する歴史的な人物や事件は、私たちが普段目にすることのない側面を教えてくれます。特に、日々の生活の中で見逃しがちな時間の流れや、鉄道の果たす役割を再認識するきっかけになるでしょう。この本を手に取り、昭和の歴史を巡る旅に出てみてください。🚆📚✨
この記事のポイント!
1. 鉄道を通じて日本の歴史を探る新しい視点。
2. 多彩な歴史的人物とそのエピソードが120年を超える歴史を語る。
3. 教科書では学べない生きた歴史の瞬間を知ることができる。
4. 時刻表を切り口に、昭和史を再考察する新しいアプローチ。
5. 魅力的な帯写真と共に旅情あふれる経緯が綴られている。
原武史著『歴史のダイヤグラム 3号車――「あのとき」へのタイムトラベル』が、2025年4月11日(金)、朝日新聞出版より発売されました。朝日新聞土曜別刷り「be」で人気の連載「歴史のダイヤグラム」新書化第3弾です。「時間的・空間的な広がりをもつ鉄道を媒介に、時代や社会を論じることで、一般の教科書レベルの歴史とはまったく異なる、日本の近現代を俯瞰する巨視的な世界が見えてくる」と考える著者が本書で話題にしている人物と駅・線路は、「昭和天皇と山陰本線」「大正天皇と沼垂(ぬったり)駅」「宮脇俊三と東岩瀬駅」「吉田茂と熱海駅」「血盟団事件・小沼正と常磐線」「佐藤栄作と横川駅・峠の釜めし」「谷崎潤一郎と大阪駅」「松本清張『ゼロの焦点』と北陸鉄道能登線」「美空ひばりと寝台特急はくつる2号」などなど、多岐にわたります。なお、今回の旅情あふれる帯写真は、著者が学生時代(1982年)に上野駅で撮ったものです。
鉄道が運んでいるのは、人と荷物だけではありません。過去から未来への「歴史の瞬間」も運んでいます。時刻表を切り口に昭和史を読み直すと、意外な姿が見えてきます。本書では81のエピソードが紹介されています。いくつか、ご紹介します。
吉田茂、熱海まで乗り過ごす
敗戦直後の1945(昭和20)年9月17日、神奈川県の大磯にあった吉田茂の私邸の電話が鳴った。首相の東久邇宮稔彦が、至急上京せよと言っているという。迎えの車に乗って首相官邸に着くと、重光葵外相が辞職したので後任の外相になるよう依頼された(『回想十年』)。
吉田は逡巡の末、この依頼を承諾した。やがて本格的な保守政権を築くことになる政界への第一歩が、こうして踏み出されたのだ。
それから何日か経ち、国務大臣の近衛文麿から連絡があった。千葉県柏の郊外に隠棲していた牧野伸顕に会い、ある問題についての意見を聞くようにと言う。牧野は吉田の岳父だった。
吉田は柏からの帰途、首相官邸に立ち寄った。45年9月22日土曜日の東久邇宮の日記には「三時頃吉田外務大臣、来る面会要談をしてぢきに辞去」とある。ほかに同様の記述はないから、牧野に会ったのは吉田の誕生日でもあるこの日しか考えられない。
たまたま国務大臣の小畑敏四郎も官邸にいたらしい。吉田は小畑とともに杉並区の荻窪にあった近衛の住居「荻外荘」を訪れ、夕食をともにした。酒好きの吉田は、近衛の取って置きのシャンパンをぐいぐい飲んだ。
「帰ろうと思って立ち上がると、いささ酩酊に及び、足許が覚束ない。夫人は泊ってゆけといわれたが、大磯に用もあったので、とにかく帰ることにした。〔近衛〕公はしきりに大丈夫かと心配され、車を出してくれたので、書生に附添われて新橋駅までたどりついた」(同)
当時の時刻表から判断すると、吉田が乗った東海道本線の下り列車は新橋22時発の山田(現・伊勢市)ゆきか、22時15分発の大阪ゆきだったと思われる。
吉田は車内で眠りに落ちてしまった。「ふと目が醒めて辺りを見廻わすと、おかしい。右手に山、左手に海が、夜目にもはっきり見えるではないか。大磯までにはそんな場所はない」(同)
列車は相模湾に沿う小田原と熱海の間を走っていた。山田ゆきも大阪ゆきも、小田原を出ると熱海まで止まらなかった。吉田は熱海で降りたが、上りの終列車はとっくに出ていたため、やむなく待合室で一夜を明かした。
「朝になってまた目醒めると、多勢の人が行列している。行列しないと切符が買えないと知って、慌てて行列に加わったけれど、意地悪く私の二、三人前で『売切れ』の表示が出た」(同)
一国の外務大臣が乗り過ごした上、寝ぼけ眼で切符を買おうと行列に加わったものの、肝心の切符が手に入らない。後日、吉田が近衛にこの話を伝えると、近衛は笑いこけたという。
佐藤栄作と峠の釜めし
一九五八(昭和三三)年一〇月一八日9時45分、昭和天皇と香淳皇后を乗せた列車が原宿駅を発車し、富山に向かった。列車は群馬県の高崎から信越本線に入り、横川で機関車を付け替えた。横川と次の軽井沢の間は国鉄で最も勾配のきつい区間であり、アプト式の電気機関車が列車の前後に合わせて三両併結された(『昭和天皇御召列車全記録』)。
アプト式というのは、線路中央に敷かれた歯型のラックレールと機関車に設置した歯車をかみ合わせて上り下りする方式のことだ。
機関車を付け替える時間を利用し、車内に駅弁が運び込まれた。同年二月から販売された「峠の釜めし」だった。製造元の荻野屋は、天皇のため特別の釜めしを作った(荻野屋ホームページ)。
昭和天皇よりこの駅弁に長く親しんだのは、毎年夏に軽井沢の千ケ滝せんがたきプリンスホテルで静養した皇太子(現上皇)一家だった。同ホテルの最寄り駅である中軽井沢から帰京する際、釜めしを食べたという(同)。アプト式が一九六三年に廃止されても、横川―軽井沢間で機関車を併結する習慣自体は変わらず、釜めしを買う時間は十分あった。
軽井沢には政治家の別荘も少なくなかった。その一人が一九六四年から首相となる佐藤栄作だった。佐藤も夏になると軽井沢に出かけたが、ふだんは自動車を使った。もちろん駅弁は食べなかった。
だが一九六六年八月一六日は違った。上野16時50分発の長野ゆき急行「第3信州」に乗ったからだ(『佐藤榮作日記』第二巻)。この急行も横川で電気機関車を併結し、軽井沢に19時27分に着いた。
八月二二日、佐藤は「予定を変更して早目に帰京する事とし、同時に列車に変更」して軽井沢17時53分発の急行「第2妙高」に乗った(同)。この急行は横川で電気機関車を切り離し、上野に20時24分に着いた。
どちらの急行も横川でかなりの停車時間があった。その間に佐藤は、自動車ではできない行動に及んだと思われる。峠の釜めしを買い、車内で夕飯にしたのだ。
こう考える根拠は、八月二六日の日記にある。この日、佐藤は上野15時26分発の長野ゆき急行「第2信州」に乗り、軽井沢に向かった。それを記したあとに、「峠の釜めしやとすっかり友達となり旅情をなぐさめてくれる」という一文を加えているのだ。
「すっかり友達とな」るには、それ以前に二回以上は釜めしを買った経験がなければなるまい。そう考えると、移動手段を自動車から鉄道に変えた直近の二回しか当てはまらない。だが九月九日に軽井沢に行くときにはまた自動車に戻ってしまった。やはり旅情よりも機動性を重視したからだろうか。
美空ひばりと夜行列車
一九五八(昭和三三)年三月二〇日、京都22時55分発東京ゆき急行「彗星すいせい」に、美空ひばりが乗った。数ある夜行急行のなかで、「彗星」は唯一、ほぼすべて2・3等寝台車で編成されていた。この寝台車は快適だったようで、「汽車の音を子守唄に、グッスリ寝こんでしまい」(『胸に灯りをともす歌』上)、8時31分着の横浜で降りた。
ひばりはすでに大スターの座にあった。鉄道を使い、公演の旅に出ることも少なくなかった。地方では、列車が駅に停とまっている間に大勢のファンが車内になだれ込み、サインをせがまれることもあった(『ひばり自伝』)。そのせいか、夜行列車を重宝するようになった。
太秦うずまさの東映京都撮影所での仕事が多かったひばりは、東海道本線の夜行列車をしばしば利用した。五六年から東京と九州を結ぶ寝台特急が走り始めたが、関西に行く場合は東京と大阪や神戸を結ぶ急行のほうが便利だった。
一九五七年から六〇年まで月刊誌に連載されたひばりの日記には、東京で仕事を済ませてから夜行の急行に乗り、翌朝京都に着くや太秦の撮影所に向かう記述がいくつもある。最も利用したのは、東海道新幹線開業前日の六四年九月三〇日まで走っていた「彗星」だった。快適なうえ、下りも上りも時間帯がよく、利用しやすかったからだろう。
当時、ひばりはまだ二〇代前半で、寝ている間に移動できる夜行列車はありがたかったに違いない。だが年齢を重ねるにつれ、その移動が苦痛になっていったようだ。
一九八三年五月一一日朝6時、上野に着いた列車からひばりが降りた。青森を前日の20時15分に出た寝台特急「はくつる2号」だった。
「ああ疲れた!/昨夜の汽車の寝台ではとてもねむれなかった……/体が小さいくせにせまいベッドが嫌いだ!/どちらを向いても手が痛い!/椅子のくぼみで腰が痛い!/なんとねづらいベッドよ……」(『川の流れのように』)
若いころとは異なり、ほとんど眠れなかった様子がひしひしと伝わってくる。
ひばりが乗ったのは、昼間は普通の特急として走り、夜間は寝台車に変身する583系という車両だった。ボックス型の席が寝台になるため、下段だとどうしても窪くぼみができてしまう。これが耐え難かったようだ。
美空ひばりが歌手として活躍した時代は、公共企業体としての国鉄の時代とほぼ重なっていた。それはまだ新幹線網が確立しておらず、全国の主要幹線に夜行列車が走っていた時代でもあった。ひばりの分刻みのスケジュールは、昼夜を問わずダイヤ通りに走る国鉄によって支えられていたと言っても、過言ではないだろう。
【著者略歴】
原 武史 はら・たけし
1962年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。東京大学大学院博士課程中退。明治学院大学名誉教授。放送大学名誉教授。専攻は日本政治思想史。高千穂あまてらす鉄道総合研究所理事。著書に『「民都」大坂対「帝都」東京』(サントリー学芸賞)『大正天皇』(毎日出版文化賞)『滝山コミューン一九七四』(講談社ノンフィクション賞)『昭和天皇』(司馬遼太郎賞)『歴史のダイヤグラム』シリーズなど多数。
『歴史のダイヤグラム 3号車』目次
第1章時刻表から読み直す、あの事件
第2章皇族も政治家も、みんな鉄道を使っていた
第3章作家が愛した線路
第4章あの日の駅弁、思い出の車輛
第5章旅情の記憶
あとがき
『歴史のダイヤグラム 3号車――「あのとき」へのタイムトラベル』
著者:原武史
定価:990円(本体900円+税10%)
発売日:2025年4月11日(金曜日)
体裁:272ページ、新書判