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高槻市の寒天づくりは、天明7、8(1787、8)年頃、同市出身の宮田半平が、伏見から製造方法を学んで郷里に持ち帰ったことから始まったとされています。同市は、原料や製品を運ぶための交通の便がよく、中でも原・塚脇地区などの山間部は、水・燃料・季節労働者が容易に確保できて、冬の乾燥した寒い気候や乾燥に必要な広い土地などの生産条件に恵まれていたため、江戸時代後期には国内屈指の生産量を誇りました。「寒天の里」として栄え、大坂の豪商・尼崎又右衛門の管理下で長崎から海外まで輸出されていました。
今では、同市内に唯一残る「株式会社タニチ」が伝統の製法を守り、市内でも一段と寒さが厳しい田能で昼夜の寒暖差を生かし、寒天づくりを行っています。
この日行われた作業は、海藻のテングサを煮て作られたところてんを「天筒」という容器に入れてよしずを敷いた台の上に並べる「天突き」。この後、ところてんを夜間の厳しい冷気で凍らせ、日中には天日によって溶け出した水分を蒸発させることを2、3週間繰り返して、寒天にしていきます。
同社・福田耕平センター長は、「冬に入ってもしばらく暖かい日が続いたので心配していましたが、1、2月は冷え込む日が多くてホッとしました。今年も良い寒天になると思います」と話しました。完成した寒天は、府内の和菓子屋に出荷され、水ようかんやゼリーの原料になります。
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