『コート・ダジュールの小さな旅』(小峰和夫・小峰良子著)
長年海外旅行を趣味にしてきた夫婦も、いつの間にか古稀を越えてしまい、「そろそろおしまいかな」という気分で、最後の旅行先に選んだのがコート・ダジュール。国際的な保養地として知られる南フランスの地中海岸地方で、イメージ的には庶民にあまり縁のなさそうな高級感が漂っている。ところが、よくよく聞いてみると、実はそこはゴージャス一点張りの雰囲気の土地柄ではなく、レトロな街並みやノスタルジックな風物に恵まれ、素朴な農漁村的風情も残っているらしい。
そればかりではない。かつてここは、ルノワール、マティス、ピカソ等々、有名な画家たちに愛された土地でもあった。ゆかりの場所もあちこちにあるという。つまり、コート・ダジュールには、風光明媚な高級保養地というだけではない、誰でも愉しめる見どころがたくさんあるらしいのだ。電車やバスの便もいいので容易に「小さな旅」もできそうだった。
だとすれば、少々脚の衰えた夫婦がのんびり滞在するには恰好の土地ではないか。すこしくらい無理してでも行く価値があるのでは。そんなふうに思えてきた。さっそく、ガイドブック、旅行雑誌、インターネットなどで滞在地と宿をさがしてみた。
すると、宿泊施設を紹介するネット上のサイトで、案外簡単に探し当てたのが、アンティーブという聞いたこともない港街と、そこにある民泊のような古民家の部屋だった。部屋は別荘風で自炊もできるという。街の様子や部屋の情報をよく吟味しながら費用や健康のことも考え、あれこれ迷ったすえに、思い切って1か月の予約を取ることになった。2018年早春のことで、出かけたのは初秋の9月だった。コロナ禍がはじまる1年余り前のことである。
初めて降りたニースの空港。ここでいきなりのハプニング。まずは、到着ロビーの入口で、若い女性係官から所持金の額を質問され、不意のことで思わずまごついてしまう。つぎには、出迎えに来ているはずの部屋の管理人が現れず、スマホを持たない夫婦は途方に暮れかかったが、観光案内所の助けを借りて親方風の管理人とやっと「ボンジュール」。彼の運転で海沿いの道路をアンティーブの街へ向かう。
部屋は古色蒼然とした3階建ての石造りの建物の2階にあった。シンプルなワンルームタイプで、台所も浴室もあって広さは50㎡ほど。壁の色や家具なども今風のものでなく、さりげなく落ち着いた雰囲気の別荘という感じ。設備も細かな備品も揃っていて、すぐに「生活」をはじめられそう。一目で気に入った。
ところが、ここでまたしてもハプニング。現金払いになっていた部屋代を払おうとすると、なぜか親方は領収書を用意していなかった。どうやら部屋のオーナーから指示されていないらしい。言葉も通じずしばし気まずい沈黙・・・・・不安はあったが、仕方なくここは肚をくくって、親方に現金を渡してみると、あっさり部屋の鍵をもらえた。それでOKということらしかった。親方はケロッとした顔で帰っていった。
管理人と言っても、親方がこの建物に常駐しているわけではない。ほかに二つ部屋があったが、どちらもずっと留守だった。鍵をもらうとアパートの部屋にいるのと同じようなもので、ちょっぴり心細いところもあったが、毎日至って気ままに過ごすことができた。
部屋の周辺はグリマルディという古城の膝元にひろがる歴史地区だった。歩いて1分で紺碧の海を眺望できる高台の道路に出られる。静寂な空気に包まれた夜明けの海を眺め、水平線の向こうから昇ってくる太陽を待つ。そんな贅沢なひと時を愉しむことが、滞在二日目からの朝の日課になった。周辺は昼間でも騒音にまったく無縁の、レトロで閑静な明るい住宅地である。しかも石畳の小路を歩けば数分で商店街にも行ける。立地条件は申し分なかった。
街の中では、何よりも馴染みになったのが市場である。屋根と柱だけの年代物の建物の下で、毎朝開かれる昔ながらの朝市の名は《プロヴァンス市場》。こじんまりした朝市なので、言葉もままならない外国人の老夫婦でも、気おくれすることなく溶け込めるふれあいの場ともなった。野菜農家、魚屋、肉屋、漬物屋等々、馴染みの店もすぐにできた。
その市場の裏手に見つけた小さなカフェ。ここもまた滞在中の憩いの場所となった。早朝、店にやって来るのは常連の客たち。みんな道路に並べられたテラス席に坐る。ウエイターはまだ学生っぽい好青年。渋い味わいの店がすっかり気に入り、いつも市場の買い物の前に寄って、コーヒーを啜りながら往来を眺める。これもまた日課みたいになった。常連の客たちは物静かな人ばかりだったが、よそよそしいという感じではなく、自然と仲間入りできた。
市場の先に広がるのが旧市街の商店街と住宅街である。ここも建物は中世以来のもので、ほとんどが石造りの3階建てである。高いビルは一つもない。縦横に張り巡らされた小路には車は入れない。アンティーブの旧市街は、徹底した歩行者優先のエリアなので、車の騒音も危険もなく、人はのびのびゆっくり買い物や散歩が愉しめる。これにはちょっと感動させられた。
軒を並べる店も昔ながらの個人商店のようなものばかり。でもけっして古くさくなどない元気で親切な店ばかり。パン屋、魚屋、惣菜店、ミニ食材店、リカーショップ、ブティック、雑貨店、カフェ、レストラン等々、商店街はいつもたくさんの客でにぎわっている。小規模な店なのでどこもみな入りやすい。散歩がてら夫婦して商店街を歩き、普段の買い物のほか夏物衣類のバーゲンセールや広場の蚤の市、食事などを至って気ままに愉しむことができた。
そして、アンティーブの街にはほかにも自慢のものがある。一つは、ヨーロッパ有数の規模を誇るマリーナで、いつも大小様々な姿の船が停泊している。嬉しいことに広々とした静かな敷地内には、誰でも自由に入ることができる。ここも市民の憩いの場なのだ。
もう一つは、海岸線の高台にそびえる古城と、その中にある世界最初のピカソ美術館である。ピカソの陶芸作品を鑑賞できるだけでなく、紺碧の大海原を眺め渡すこともできるので、観光客はかならずここを訪れる。
かつてアンティーブには、あのクロード・モネも写生旅行に来たことがあり、気に入ったとみえ半年も滞在し、街の遠景を描いた作品を遺している。日本でも人気のあるペイネも街にゆかりの画家で、旧市街の中にその美術館がある。アンティーブの街は今でも芸術家に人気があるらしい。そのせいか街にはアトリエや工房、スタジオなどが多い。味のある渋めの街アンティーブには、観光地とは一味違う魅力があふれている。老人がゆっくり滞在するにもぴったりの街である。
そして、今度のふたりの旅行のもう一つの柱になったのが、芸術家ゆかりの場所を訪ねる日帰りの旅である。電車とバスを使っての移動で、タクシーに乗ることはなかった。近距離の所が多いのでどこも楽々行けた。おかげでコート・ダジュールのおもだった街を、のんびり訪ね歩くまたとない機会になり、幸せな気分を味わうこともできた。どんな所に行って何を見たかと言うと。
イタリアと国境を接するバロック建築の街マントンは、フランス一のレモンの産地であり、マルチな芸術家として活躍した詩人ジャン・コクトーに愛されたことから、その生涯の作品を集めた超モダンな美術館が海辺に立っている。
同じくコクトーが愛した街がヴィル・フランシュ。昔は自由貿易港だった崖を背にする小さなパステルカラーの愉しい街には、コクトーがよみがえらせたチャーミングな礼拝堂が待っている。今は人気の観光地でもある。
国際映画祭の街で世界に知られるカンヌまでは、アンティーブから電車で二十分もかからない。ゴージャスな街並みと素朴な漁師町風の面影が同居する街は、コート・ダジュールで一番おしゃれなたたずまいを見せている。
山里にある城壁に囲まれた小さな中世都市ヴァンス。ニースからバスの旅で1時間余。聖堂の中に飾られたマルク・シャガールの珍しいモザイク画が見られる。題材は《モーセの発見》。シャガールはこの街に住んでいたこともあるという。
カーニュ・シュル・メールの街の郊外、広大なオリーブの丘に遺るのはルノワールの旧宅。プロヴァンス様式のブルジョア風の邸宅は今は記念館となって、訪れる人を静かに待っている。若き日、画学生だった梅原龍三郎が、巨匠を慕ってここを訪ねたエピソードには胸を打たれる。
小山にひろがるオード・カーニュの街は、《コート・ダジュールのモンマルトル》の愛称を持つ芸術の里。頂上に立つ山城の中の美術館の一室には、有名画家たちが競って描いた異色の女性シャンソン歌手シュジー・ソリドールの40枚の肖像画が展示されている。
哲人ニーチェもしばしば足を運んだという岩山の村エズは、《鷲の巣村》の異名を持つ奇観と絶景を誇る人気の観光地。一方同じく鷲の巣村のビオは、のどかさ満点の山里だが、ガラス工房の村として知られ、キュービズムの画家フェルナン・レジェの美術館もある。
自生のハーブが咲き広がる丘にうまれたグラースの街は、フランスが世界に誇る香水の街である。かねてより《香水の都》とあがめられ、香水調合師たちの聖地でもあった。優美なロココ調の街並みも魅力の一つで、ロココ芸術の代表的画家フラゴナールもこの街の出身である。街には見学のできる香水美術館・工場がある。
重い病身の最晩年にあったアンリ・マティスが、尼僧院の頼みに応じて設計し、自ら描いた宗教画を収めた真白な礼拝堂は、ヴァンスの街はずれにひっそり立っている。人びとは《ロザリオ礼拝堂》と呼んでいるらしい。類例のない光あふれる礼拝堂は、光の魔術師と言われるマティスを象徴しているかのようである。
ニースの山の手シミエ地区には、貴族の館を使った赤い外装のマティス美術館があるし、近くにはたくさんの宗教画の大作を展示したシャガール美術館もある。入館者目線で運営される人気の高い美術館である。
今回のふたりの旅はほぼ1か月。けっして長いものではなかったけれど、夫婦はこまめに小さな旅を重ねて、いくつもの芸術家の足跡を訪ねることができた。どこもおだやかな土地柄で、緊張を強いられるような場面はどこにもなかった。芸術家とそのゆかりの場所について、いろいろなエピソードを知る機会となった。旅は知的好奇心をかき立てる。そのことをふたりは改めて実感したのである。
一方、食べ物のことも旅のいい思い出である。小さな旅の訪問地では、ヴィル・フランシュの風味ある魚のスープ、ヴァンスで出逢った珍味のアルメニア料理、炙ったマグロ入りのニース風サラダ、アンティーブで食べたプロヴァンス風の牛肉煮込み、屋台で焼かれたニースの名物菓子ソッカ、あるいはガレット、カンヌの街角のパティスリーではエクレアにオペラ等々。
でも、今回の旅行ではふたりの食事の中心は自炊だった。市場で買ってきたエビの塩ゆで、イカやヒメジの煮つけ、豚肉のソテー、ハンバーグ、山羊のチーズ、新鮮野菜、果物、オリーブの漬物、生ハム、パン、屋台風の店のローストチキン、キッシュ、コロッケ、それに日本から持参した麺類、味噌・醤油、スープカレー等々。そして、外食でも自炊の食卓でも、かならず添えられたのがグラス1杯の、地元特産のさわやかなロゼワインであった。
晩夏から初秋にかけての季節は、おだやかな天候に恵まれて雨天の日も曇天の日もなく、コート・ダジュールはどこも《太陽の散歩道》と呼ぶにふさわしい気候だった。ただ一度だけ荒れた天気の日があった。早朝からびっくりするような強風が吹いていた。寒風ではなかったけれど、どうやら冬のプロヴァンス地方に吹き荒れる季節風、ミストラルの前ぶれのようだった。このアルプスおろしには、アルルにいたゴッホも悩まされたし、オード・カーニュに数年暮らした画家の三岸節子も心細い思いをさせられたらしい。その前ぶれに出逢ったというのも一興だったのかもしれない。
滞在の初日こそ思わぬハプニングの連続にまごついたけれど、その後はほとんどトラブルなどなかった。あったのは洗濯機のエンストくらいで、これもカフェの青年に頼んで親方を呼んでもらいあっさり解決できた。ふたりが老人だったせいか、どこに行っても人びとはみな親切に接してくれた。どちらもフランス語ができないので、道を尋ねたりするいくつかの決まり文句を暗記しておき、それを使って行きあう人たちの親切を頼りに、あまり苦労もなく乗り切った。これはこれで海外旅行らしくて愉しくもあった。何から何までおだやかだったコート・ダジュールの旅に満足して、夫婦は生涯最後となる海外旅行を終え、無事に帰国したのであった。
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読者ターゲット
想定したおもな読者は、海外旅行の愛好者、紀行書・旅のエッセイの愛好者、フランス愛好者、画家や作家などの芸術家で、30歳代後半以上の女性たち。
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この本にこめた想い・伝えたいこと
思い出は老後の貴重な資産である。置き場所は要らないし、盗まれる心配もない。いつでも、どこでも、記憶の抽斗から取り出し、懐かしむことができる。そのたびに心が安らぐ。心の安らぎほど老後にありがたいものはない。旅こそは思い出を作るのに格好の機会である。いま行くのが難しい人は、興味ある土地の紀行書やエッセイを読んで、愉しい旅の教養を増やしてほしい。本書を通じて一番伝えたかったのはそのことである。
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著者プロフィール
小峰和夫(こみねかずお)
1945年生。東京教育大学卒。元日本大学教授。社会経済史家。経済学博士。著書に『満洲』(講談社学術文庫)。『満洲紳士録の研究』(吉川弘文館)等。
小峰良子(こみねりょうこ)
東京家政大学短期大学部卒。管理栄養士。フードコーディネーター。アルコール依存症更生施設等に勤務。共著書『極楽ロングステイガイド』(ロングステイ財団編)。
ポルトガル共和国への夫の研究留学に妻も同行。1997年、体験記『ポルトガルの風』(東洋出版)を夫婦共著で出版。同年愛好会《倶楽部ポルトガル》を結成しこれを主宰。駐日ポルトガル大使館と協力して日葡文化交流の促進などにつとめる。40代の頃より夫婦でヨーロッパを中心に海外旅行を豊富に体験。フランスではパリのアパートに1か月ほど滞在したこともある。
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書籍情報
書籍:コート・ダジュールの小さな旅
著者:小峰和夫、小峰良子
出版社:パレード
発売日:2024年7月1日
ISBN: 978-4-434-34112-0
仕様:四六判/上製/220ページ
価格:1,500円+税
Paradebooks:
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代表取締役:原田直紀
設立:1987年10月20日
資本金:4000万円
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