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イベント概要
・ヨコハマ海洋市民大学実行委員会は「横浜の海が抱える社会課題を自ら考え、解決できる市民(海族・うみぞく)」を育成するヨコハマ海洋市民大学2024年度講座の第2回目を開催した(年10回開催)。
・開催日時:令和6年7月4日(木)19:30~
・開催場所:横浜市中区 象の鼻テラス
・参加人数:68名(会場受講生45名、オンライン受講生12名、ゲスト4名、講師・実行委員7名)
・共催:海と日本プロジェクト、象の鼻テラス
・後援:(横浜市・海洋都市横浜うみ協議会へ申請中)
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知ることで始まる 海と人との共存社会
2024年度第2回目の講座は横浜界隈研究家の河北直治さんにお話をいただきました。河北さんはヨコハマ路上観察学会も主催されおり、歴史的な資料文献の調査だけではなく実際に歩き、街にのこる歴史の痕跡を確認されています。
受講生にはA3サイズにみなとみらい関連の歴史をまとめた資料が配布され、これを基に講座がスタートしました。開港前後から現在に至るまでの地図、歴史的な出来事、歴代の市長名、横浜市の政策などがぎっしりと記載されています。
まずは横浜の歴史の振り返りから。そこでは「開港以来の資産がほとんど残っていない」という講師の言葉が印象的でした。「関東大震災や空襲など大きな災害で何度も街がリセットされた」ということが同時期に開港し発展してきた他都市との違いだということです。特に横浜の関内地区は災害以外にも米軍による長期間にわたる接収など歴史的な出来事が要因のひとつとなっているというお話でした。そんな開港場となった関内地区(かつての横浜村)は水源があったことが非常に重要で、かつては水天宮という神社がありペリー率いる米国が現在の象の鼻辺りに上陸し、外交に関する交渉をすることができたのもここで水が調達できたということが重要だったようです。たしかに食材よりお水を運んでくるのは大変そうです。「横浜の発展を水の視点で考えるとおもしろい」と講師は語ります。さまざまな要因で更地になり、開発が進み、また更地になり…という繰り返しのなかで、みなとみらい地区が国鉄や造船所などの移転により大きな更地になり、さらに開発・発展するという現在の形につながってくるのも横浜ならではのことなのだと講師の話をきいて筆者は感じました。また横浜市の発展に伴い中心市街地が横浜駅周辺に移っていくなかで、横浜駅周辺と関内周辺をどのようにみなとみらい地区が繋いできたのか、ということも意識してみる必要があると思いました。
講師は、雑誌「横濱」の大岡川特集で吉田新田や運河について執筆したことから、さらに水辺について研究したいという気持ちになったそうです。また横濱界隈研究家として文献を調査するだけではなく実際に街を歩き、実際に調査するという活動も継続されており、その「ヨコハマ路上観察学会(任意団体)」は毎月1回の例会を開催、先月でなんと107回を迎えたそうです。講師はそんな活動を続けながら死ぬまでに大岡川運河歴史をまとめたいと語っていました(まだまだお若いのでご活躍を期待しています!)。
講座はみなとみらいを含めた近代横浜を振り返りながら進みます。象の鼻地区は近代横浜の原点と位置付けることができ現在も当時の象の鼻、子象の鼻と呼ばれた波止場の痕跡をきちんと残してあるのが素晴らしいとのことでした。
ペリー来航の図を見るとかつての横浜は「浜」でしたが波止場ができることで港としての発展が始まります。そして大正時代以降、現在の位置で初代の大さん橋が活躍し港湾施設の発展と並行し街の開発も進みます。
時代は近世に戻り人口増に合わせ不足する食料のための新田開発も進みます。現在の関内・関外エリアも江戸時代にはその多くが入江でした。
幕末開港のために東海道から開港場に向けての道も「横浜道」として整備が進みます。現在の横浜駅西側のエリアから、現在は埋め立てられて分からなくなっていますが、当時の海岸沿いに野毛を経由して開港場に向かう道です。ここでもたくさんの埋め立てが行われました。この時代は民間主導の埋め立ても行われており鉄道を走らせるための道も民間の力(資金)で作られ現在でも名前が残っている高嶋嘉右衛門や内田清七などが活躍したそうです。ただ現在はその名前を冠した内田町は区画整理により、みなとみらいのほんの一部だけになってしまっているそうです(高島町はしっかり残っています)。そんな民間主導の工事を調べるなかで、日本の土木技術は当時でも先進的なものであったようです。
明治以降、日本の政策は鉄道と造船を優先していました。しかし大きな民間船の造船所はなかったので横浜に作られました。横浜船渠という会社でした。設立には岩崎弥太郎や渋沢栄一が民間主導で活躍したそうです(渋沢さんと言えば新札の方ですね)。
街や港湾施設の発展に際し、横浜は平地が少ないため河口から海に拡張していくしかありませんでした。明治時代には早くも海を埋め立てて街を拡大しています。その後も同様に大正・昭和の京浜工業地帯へと発展していきます。
戦後の混乱を経て横浜がますます発展していくために作られたのが飛鳥田市長時代の横浜六大事業という政策です。はまっ子ならご存じですよね?
1.都心部強化2.金沢埋め立て事業3.港北ニュータウン4.高速鉄道5.高速道路6.横浜港ベイブリッジです。この都心部強化は横浜駅周辺と関内周辺2つの都心中心部を臨海部でつなぐというミッションがありました。みなとみらい地区のコンセプトは1.横浜の自立性の強化2.港湾機能の質的転換3.首都圏の業務機能の分担というものだったそうです。現在「みなとみらい」と聞くと「みなとみらい駅」周辺だけをイメージしがちですが、当時の計画は横浜駅東口から大さん橋までの広大なエリアを指していました。
みなとみらいは計画から完成まで40年を要したそうです。そこには造船不況や船舶の大型化、物流のコンテナ化など港湾事業や物流の在り方の変化など時代の波があと押しし、その他六大事業では関内を通る首都高の地下化や地下鉄の整備など多くの計画が現在の形で実現されました。
>1989年(平成元年)に開催された横浜博覧会 YES(Yokohama exotic showcase)からまちづくりが始まり横浜駅側と桜木町駅側に繋がることでにぎやかになったみなとみらい地区ですが、鉄道や高速道路が壁となり海側と相変わらず山側との繋がりが遮断されていると講師は指摘していました。
様々な資料を読み解き、街を歩き、みなとみらいエリアに親水性がないのも問題だということを嘆き、しばらく前に横浜で話題となった山下ふ頭再開発計画はすこし冗談のように「いっそのこと海に戻してほしい」と語ります。また、みなとみらいに作られたコンベンションシティというコンセプトも当時は批判されたようですが、現在は大成功を収めていること、現在のベイバイク(レンタル自転車)の整備が上手くいっていること、歴史的なものが点在しているオープンミュージアム的な風景(街を歩いていると出会う大きなスクリューや大きな錨、大さん橋の基礎に使われていた鉄製の杭など)もよい取り組みだと話されていました。ここで予定の時間を遥かに超え、講座の終わりを迎えました。
あっという間の1時間半でしたが、今回は講座の始まる前にもちょっとしたイベントがあり、受講生・講師・スタッフが会場から外へ出て「水辺で乾杯!」をすることができました。(※)今年は水辺で乾杯ウィークということで7月7日午後7時7分にしばられずたくさんの参加者と乾杯ができました。
講師も指摘しているみなとみらい地区における親水性の少なさが改善され、開かれた水辺が増えるように行動していこうと筆者も思いました。
※水辺で乾杯2024:
https://mizbedekanpai.mizbering.jp/
今年度ヨコハマ海洋市民大学は「さあ、海へ行こう。」というテーマで講座を開催します。実際の自分のアクションに落とし込めなければ学んだこともただの絵に描いた餅です。受講生の皆さんに自分自身のアクションが見つかることを願い、さまざまな講師にお願いをしています。また10回の講座の後には海族(うみぞく)による海族のための「海辺の文化祭」も予定しています。1年間一緒に学んで、自分のアクションを見つけましょう!
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参加者の声
・いつもにも増して情報量がすごかった
・みなとみらい地区の役割を初めて意識した
・ヨコハマ路上観察学会にも参加してみたいと思った
<団体概要>
団体名称:ヨコハマ海洋市民大学実行委員会
URL:
https://yokohamakaiyouniv.wixsite.com/kaiyo/
活動内容:横浜市民が横浜の海が抱える社会課題を自ら考え解決に向けて行動できる海族(うみぞく)になるための養成講座を年10回(コロナ禍以前は年20回)開催している。座学だけではなく実際に海や海を学べる野外講座も開催している。
日本財団「海と日本プロジェクト」
さまざまなかたちで日本人の暮らしを支え、時に心の安らぎやワクワク、ひらめきを与えてくれる海。そんな海で進行している環境の悪化などの現状を、子どもたちをはじめ全国の人が「自分ごと」としてとらえ、海を未来へ引き継ぐアクションの輪を広げていくため、オールジャパンで推進するプロジェクトです。